大学4年生の夏という人生最大の空白に思ったこと

■人生初の、全く何の義務感もない空白の期間。

 

大学4年生の夏を自堕落に過ごしている。飲みに行ったり、カラオケに行ったり、散歩したり。あとは何もしなかったりする日も多い。何かに追われ続けた大学生前半を考えると、ありえないほどに自由な日々だ。今僕には、やらなくちゃいけないことはなく、果たさないといけない役割も一つもない。

 

そして嬉しいことに、この空白は、休学や留年など自らの選択によって作り出したものでもなく、ただ就活を終えた大学生という社会的におおっぴらに許された暇であることだ。だから、一切の罪悪感がなく気持ちがいい。

 

こんな時間は人生で初めてだと思う。

 

人間やることがないとだんだん暗い気分になってくるんだが、それで気晴らしに川辺も散歩してみる。そして歩きながら、暗い気分を整理していくんだが、今自分が困っていることが一つも見つからない。

 

そして最後悩みもないのに気分も晴れない不思議な人になって散歩を終える。

 

ずっとそんな感じだ。

 

そういえば、いつから何かに追われ始めたんだろう。たぶん、10歳くらいで個別指導塾に通いだしてからだ。そこから自分には常に目の前にやるべきことが並べられており、それをどれだけ達成できるか競争させられてきた。

 

順番に並べると、中学受験。中学での成績。高校での成績。大学受験。だろう。

 

当時は、自分で勉強することや受験することを決めていると思っていた。でも結局、勉強することの社会的な正しさに、迎合しにいく選択をさせられてきただけだろう。

 

さらに、自分は今を楽しむことを自分から避けてきた。社会的に正しいとされるベクトルで、きちんと基準を満たすことさえ頑張ればいいだろうという甘えによって、勉強(と部活)に打ち込んだ。それ以外の余った時間は、図書館にこもることで徹底的に「今を生きること」から逃避してきた。

 

せっかく中高一貫校で、高校受験のプレッシャーから逃れられる環境だったのだから、もっと、その特権的な時間の猶予を活用できたのではないか。時間の使い方に後悔はしていないが、反省することはたくさんありすぎて頭をかきむしりたくなる。

 

僕はいじめによる人間不信で、中学高校と堂々と言える「友達」を一人も作ることができなかった。いわゆる青春と呼ばれるようなものを満喫することが、できなかった。

 

でも、こういう書き方は自分を客観視できる、今の視点から振り返るとそう見えるというだけの話だ。

 

僕はあの時あの瞬間、自分の人生が一番充実する、楽しいと思えていたことに思い切り時間を使った。だから傍から見たら悲惨な中高生活を過ごしていたように見えるが、後悔はほとんどない。

 

その次が大学。大学は、初めてかつ一部の人にとっては最後の「自由」を与えられる時間になる。

 

大学は、社会的に良いとされている正しさは一切なく、勉強でもスポーツでも、それ以外でもなんでも取り組んで良い環境だ。もしくは、何も取り組まなくても良い

 

だけど僕は大学でも自由になれなかった。

 

自分が大学で苦しめられてきたのは、「自分自身はどこから来てどこへ向かうのか」「その方向性や立ち位置を決めなければいけない」という使命感、義務感だった。それは極めて抽象的で、他人から理解されないもので、意識高い系とも揶揄される何かだったのかもしれない。

 

自分は図書館にこもって生きる意味についてむだに悩みすぎた。特に、17歳の時に読んだ朝井リョウの『何者』に衝撃を受けすぎて、自分をメタ的に見たり、存在意義に悩んだりするスパイラルに陥った。

 

そして、自分は「何者」を読んでしまった以上、大学生の間は、何かに向かって自分はひたむきに頑張らなければならないし、何かを成し遂げなければならない、と思っていた。

 

その何かは、なんでも良かった。自分が成し遂げたのだ、自分はそれを成し遂げた何者かなのだ、ということを信じて疑わない証明が欲しかった。

 

そして、それを達成するまでは、自分を俯瞰すること、評価する側に甘えることを一切許してはならない、と心に決めた。意図的に、盲目的で、狂気的で、衝動的であろうとした。その自分を全うしようと思った。

 

それで、自分の好きなものはビジネスにならないか、イベントにならないか、応用がきかないかとずっと試してきた。いわゆる意識高い系だ。

 

学生時代に意識の高い行動を起こす人間にもいくつか種類がある。

 

多いのは、金がない、モテない、あとは学歴コンプが根源のエネルギーにある人だ。

 

僕が大学に入学したときは2019年で、そのころは、ホリエモンや箕輪厚介、NewsPicksや新R25のような仕事マッチョイズムや成り上がりブームの空気管があった。それに引っ張られた人間が多かったのではないか。自分も、もちろん影響を受けたと思う。

 

しかし、自分の場合は、小説を読みすぎたせいで自分の行く末を悩み、自意識を肥大化させてしまいすぎた厄介な意識高い系だった。

 

他人から承認されたいチヤホヤされたいという思い以前に、誰しもがなんとなく持っている自己肯定感や、根拠なしの自信が自分には全くなかった。だから、まずは自分自身に対して自分の価値を証明しなければならなかった。

 

ひたすら地面をのたうち回る日々が始まった。思いつくことはかたっぱしから実践し、恥ずかしくてもとにかく(現実でもインターネットでも)人前に立とうとした。

 

結果、大学情報メディアという、大学生にしてはまあ許せる何かを成し遂げることはできた。大学1年生の終わりから3年生の初めにかけて取り組んだ。コロナという追い風にも恵まれた。

 

そして就活も、おままごと(もちろん自分が無能なだけ)を1年近く続けた末に、東証一部上場で、一応業界大手で、比較的将来性もありそうな会社から内定を頂くことができた。


…さあ、これでやっと解放された。学歴を得るためのお勉強競争から解放され、友達や現実の人間関係からの逃避もしなくなり、一定の自己肯定ができるようになった。

 

自分自身に対する存在証明と、世の中に対する存在証明が終わった。生きる意味の探求も就活を通じていったん区切りがついた。

 

テレビ、新聞、ラジオ、雑誌、書籍、インターネット。人が情報を目にして、心を動かされ、行動に移すその瞬間に携わりたい。なぜなら自分がそれに生かされ、それに苦しまされてきたから。源流は幼少期の孤独と疎外である。

 

中高で一番好きだった科目は倫理や哲学だ。人間を動かすのは主観であり、価値観である。誰しもが認める客観的な世界が存在するのではなく、僕たちの捉え方によって一人一人が小宇宙が形成されていく。この辺りが自分の考え方のベースにある。

 

その孤独と疎外へ立ち向かう、虚像にとことん浸かることができるのは、メディアと広告の世界。つまりマーケティングの世界だ。

 

2023年卒として社会人になってマーケティングをやるのであれば、それは必ずしもテレビ局や電通に入ることで実現されるわけではない。これからのあまりにも不確かな未来で、マスメディアに張るのはあまり得策ではない。と自分は思う。(もちろん学歴や地頭的に、行きたくてもいけなかったから就活が終わった後の、半分後付けだ笑)

 

ビジネスでいうところの、マーケティング職。2010年代半ばから、オラクルの「Eloqua」やセールスフォースの「Pardot(後のSalesforce Account Engagement)」などメディアと広告をデータによって自動化するソフトウェアも生まれてきている。

 

2020年代から40年代にかけてのトレンドは独創的なクリエイターとマーケティングの自動化の2極化だ。加速する自動化と合理主義、それに逆行する評価経済社会やコミュニティの復活。

 

そのそれぞれの頂点を目指す。そして小さいころの自分に、孤独と疎外を与えてきた世界に報復する。これが現時点での生を費やしたいと思う対象である。

 

やっと終わった。

 

(本当は、もう一つモテないというコンプレックスも解消しないといけない。これも大学卒業から20代にかけて、逃げずに取り組みたい。)

 

■今が楽しければそれでいいじゃんという思想

マッチングアプリで会った女の子の話が印象的だった。その子は昔からずっと勉強が嫌いで、美術や音楽が好きだったから、中学高校の勉強はそこそこにずっとアーティストのフェスや音楽を楽しんで、フェスのセットや機材を扱う専門学校に行って、フェスの運営をしているという。

 

好きなことがあったらそれに熱中できて楽しかったらそれでいい。親からもそう言われ、勉強は最低限赤点を取らないようにして、音楽に熱中してきたそうだ。

 

その子は今楽しければそれでいいじゃんということを繰り返し言ってきた。ギャルではなかったのでオブラートには包んで言われた。

 

僕もそうだったはずなのにな。

 

もし10歳に戻れるなら、動物園か水族館の飼育員になりたい。あとは大工か消防士になりたい。高いところに登って、体一つで困っている人を助けられるような。別の世界線で僕も今頃そういう仕事に就いていたかもしれない

 

でも中学受験して、上京したところから気づいたらそんな思いがなくなっていた。それは日本の学校教育が悪かったのか?受験した後の中学が悪かったのか?

 

でも中学は私立で割と自由な校風だったし、価値観の誘導もなかった。ただ詰襟の制服を着て、置いて行かれるのが怖かったから自主的に勉強していただけだ。

 

今が楽しければそれでいい、は結構真理なんじゃないだろうか。給料が満足に生活できて子供が2人くらい育てられるほどにもらえたら、、あまりそれ以上人生で考えることなんてないんじゃないのか。

 

何をこんなに悩んで、偏差値を1つでも上げるためにひいこら机にかじりついて、就活で人生の目的を語る練習をしてきたのか。今楽しければそれでいいじゃんか

 

(現実、30歳40歳になっても業界の構造上、給料が上がっていかないことや労働者という社会階層から抜けられないことは問題だし、それがこれからの少子高齢化&経済縮小&デフレの日本では難しくなるから色々と考えないといけないわけだけど)

 

そう考えたら、人生は死ぬまでの暇つぶし、という言葉の意味もすっと体に落ちてくる。死ぬまでの暇つぶし。まあまあ楽しかったらそれでよし。生きる意味なんて究極それ以上のこと見いだせやしないんじゃないか

 

あとは生きる意味を考えて病まないためにも、自分は早く結婚して子供作りたい。

 

最近、吉本ばななのキッチンを読んだ。両親を亡くし、祖母を亡くしたことで天涯孤独となった少女の視点で、希薄になっていく自分という存在と世界を鮮明に描いた名作だ。

 

この小説から、家族というものが、自分が何者なのか、ここ(世界)に存在していいという自己効力感を決定するのに極めて大事であることがわかった

 

自分の存在を肯定してもらいたい。生きる意味を考えなくていい幸せな日々が「家族」にはあるんじゃないか。

 

高校に仲良しグループはないし、大学のサークルや社会人コミュニティも、自分はひねくれて本質的なのかと疑ってしまうからダメだ。

 

そうなると家族だ。妻と子供を作りたい。家族を作りたい。男の夢は突き詰めると世界征服。家族は男にとって一つの帝国の実現だ。

 

あとは宗教へ逃れて、出家でもするしかない。

 

人間が作り出したものは、貨幣と宗教と国家の3つだ。人間として、男性性を全うするためには、貨幣を獲得し、宗教的な価値を持つコミュニティを生み出し、それが巨大になって一つの新しい国家になる。自分はそれを家族で、企業で、国家で実現していきたい。