大学のサークルはくだらないのだろうか。

僕はMARCHの3年生で、サークルは結果的に3年最後の引退まで所属しました。今回はよく言われている「大学のサークルはくだらないのだろうか」ということについてエントリーを書きます。

 

「大学 サークル くだらない」で検索すると、キンコン西野のオンラインサロンに入っていそうな、意識高い系の学生が書いた文章が出てきます。

 

このエントリーはそれらとは反対のことを書こうと思います。

 

1,サークルがくだらないと感じるのは、人生の意味を追っているからだ

サークルがくだらないと思ってしまうシーンを挙げます。

 

・内輪で盛り上がるためだけに作られ、消費され消えていくイベント

・サークルの形式的な業務と、交わされる形式的なコミュニケーション

・肩書や役職に関するメンバーの謎の自尊心やこだわり

・形式的な上下関係、同期意識

・何も生まない飲み会。

・謎に高いコミュニティへの帰属意識

 

身分と役職を与えられ、仕事を与えられ、人間関係と居場所を保証してくれるサークルという場所。これは、仲間と何かに向かって進んでいる気持ちを味わうことができるため、ぬるま湯のような気持ちよさがありますよね。

 

そんな中、一方であなたは、サークルの掲げる目標、雰囲気、規範に対して違和感を覚えています。

 

本質的な意義を感じられない。「ほんとに全力で努力しているのか?」。それか、「茶番を茶番だとわかって楽しんでいる自覚できているのか?」と思ってしまう。

 

高校のクラスや部活から何も変わっていない、閉鎖的で形式的なイベントの繰り返しに飽き飽きしている。

 

わかります。僕も、「みなさん初めまして!私はうんたら研究会7期の~~!」と自信満々に自己紹介をしているあの雰囲気が苦手でした。

 

どうしてそんなに自分の存在を信じて疑わないでいられるのか?

本当にその「○○研究会に所属する自分」で納得しているのか?

 

って思っちゃうんですよね。さらに言うと、「サークルだけではなく、大学には数百のサークルや体育会があり、僕たちが今集まっている小さな教室とコミュニティは、圧倒的なワンオブゼムのはずなのに、なぜそんな自信があるんだ?」とすら思ってたりするんですよね。

 

それで、あなたはそうではなくて、何かについての発信者、作者になって注目を浴びたいと思っている。何者かになりたいと痛切に望んでいる。いわば「意識高い系」大学生だとして。

 

さらに、朝井リョウの『何者』が描いたように、そうやって「なんの意味があるん?」「しょーもない」と俯瞰しているだけの人間のダサさすらも自覚していて、行動に移しているちゃんとした「意識高い」大学生だとしましょう

 

2,しかし、人生の意味を追求した先には虚無しかない

でも意識高く「自分は何者なのか」「自分の人生に意味はあるのか」を探求したとして、その先に何かが見つかるんでしょうか?それは、、とんでもないいばらの道になるはずです。

 

その道を突き進むのは、稀代の哲学者や教祖に並べる自信がない限り、やめたほうがいい。太宰治人間失格なんかはわかりやすいですが、内省を深めていった先には狂死しかないんですよね。

 

自分自身の本質的な姿というものは存在しません…インドに行こうが、世界一周しようが、そんなものはどこにもない。

 

平野啓一郎が分人という概念を用いて主張したように、自分が何者なのかを決定づけるのは、他者の存在になります。他者にどのような価値を、与えられるかによって自分というのは形作られています。

 

そうやってコミュニティや一緒にいられる人を選べる中で、あなたはサークルを選んで、その結果「違うな」と感じたのでしょう。

 

3,幸福度を上げる2つの指標

サークルがくだらないんだとしたらその代わりに、僕たちは大学生活または人生の、莫大な時間を何に使えばいいか。一つ抽象度を上げると、僕は主にこの2つの目標の達成のために使えばいいと思います。

 

①経済的な自由・独立

②半径3m以内の人間と一緒にいて幸せを感じられるコミュニティ

 

①の条件に対する具体例は、最低限の金儲け。ビジネス。

②の条件に対する具体例は、学校、クラス、部活、家族、企業。サークル。

 

ですから、サークルは②に対する施策の1つとして人生の幸福度を上げるために存在しているんですよね。

 

ほら、さっきから散々ディスっていたサークルの人たち、あなたよりずっとずっと楽しそうじゃないですか。

 

だから、そのコミュニティが何を目指してるのか、それが社会にとって役に立つのかどうかなんてのは正直言ってどうでもいいんだと思います。「共通の目的や意義を持って、仲間と一緒にいる」という感覚を共有できることがコミュニティの役割なので。

 

その共通の目的のベクトルと生産性が一致したものが、会社として存在しています。あとはそれが、宗教であったり、家族であったりもするわけです。そこに優劣は全くない。小さなコミュニティの中で幸せを感じられたなら、それを否定することがいったいどうしてできるのか。

 

例えば、もし幸せそうな父母娘の3人家族に対して、「親子関係なんて、小さなコミュニティの中での所詮おままごとだ。」「もっと社会にとって自分がどうありたいかを考えて物事に挑戦するべきだ」と言っている人がいたら、どうでしょうか。

 

「それの何が悪いの?」「何気ない日常に幸せってあるよね」「本人たちが自ら選んだなら、それでいいじゃん」って思うじゃないですか。そう、それです。

 

あなたはそれと同じことをサークルというに対して思っていて、批判していたのです。そりゃあ「まあ、確かにそういう面もあるかもしれないけど、、」「でも、そんなこと言っていいの?なんか冷たくない?」ってなりますよね。「冷たい」「変わってる」って思われるのは当然じゃないですか。それをあなたは意気揚々と主張していたのです。

 

確かにサークルなんて、本質的じゃないかもしれません。しょせんは同じことの繰り返し。季節ごとのイベント。

 

でもそんなこと言ったら、家族だって、本質的じゃないですよね。世代の再生産でしかなくて、また変わらず世代ごとの受験、就職、結婚とイベントをこなしていくだけ。

 

それに宗教だって、本質的じゃないです。神様なんていないし、意味の分からない儀式やイベントだらけ。

 

あれ?だったら、そもそも僕らが言ってた「本質的」とはなんだったんでしょうか。…残念ながら、それで人生を懸けて追求できるほど、人間強くないんですよね。。


4,資本主義を追うか、自らのアイデンティティと向き合うか

本質に最も近い疑似的な指標は、金ですよね。世の中のできる限り多くの人の課題を解決し、感謝されること=ビジネスで大成功してお金持ちになることが今のところ、誰にでも当てはまるモノサシです。

 

でも、それができない人は、できる人より劣っているってことになったとして、そのモノサシ一つだけで、僕たちは生きていけるのかというね。

 

世界は本当に広い。本当に広いです。大学の1サークルから目線を上げれば、情報があふれる世の中ですから無限に凄い人が出てきます。

 

所属しているサークルの中で

その大学の中で

東大や早慶の学生も含めた中で

日本中の同世代の中で

Z世代と呼ばれる95年以降に生まれた25歳以下の人たちの中で

フォロワー1万人以上の何者かになっている人達の中で

売上5000万円を超えている人の中で

資産が1億円超えている人の中で

日本の1億2000万人の中で

 

自分は今どのあたりにいるのか。モノサシが一つだけなのだとしたら、限りなく上が見れてしまいます。そして、知れば知るほど、あなたは自らのモノサシの下の下のほうにいることが突き付けられます。

 

そして、もしそこで自分のしょぼさに気づいて、これじゃ足りないと思ってしまったなら。ヘルマン・ヘッセも「考えたことは行動に移さなきゃ、考える価値なんてない。」とデミアンに語らせている以上、意識の高い人生を始めるしかないのです。

 

意識高く「自分とは何者か」を突き詰めた先が虚無しかない。だから、ゴールは見定めたほうがいいかもしれませんね。自分が何を指標にして、どのように生きていくのかを選択しなければなりません。

 

そうすると、先ほども言ったように経済的な最低限の独立と、幸せを感じられるコミュニティを見つけること。

 

今のコミュニティに満足できていないなら、どんな、どれくらいのコミュニティを作って、幸せを感じたいのか。そこからとるべき選択が決まってくるはずです。

 

サークルがもしくだらないと思っているなら、わざわざ批判しないでも勝手に異なるコミュニティを探しにいけばいいだけです。

 

僕もずっと1年生の時から、サークルはくだらないと思い続けて、何者かになろうと努力してきました。でも3年生になってサークルを引退して、落ち着いて振り返ってみると、あれこれと考えてしまいます。

 

サークルにくだらなさを感じている人は、そうだとして、自分の人生で何を指標に生きていくのかということを真剣に考えることになるのでしょう。